生きている、あるいは生かされているという現実にあまり目を向けることが無いかもしれません。生きていることがあまりにも当たり前で、毎日の日常が特別なこともなく繰り返されている時です。人は、そのような日常が何かの事情で崩されない限り、自分の生きている事実に注意深い目を向けないようです。
知源育は、その生きるという雲をつかむようなテーマにうまくフィットして、私たちに考える機会を与えてくれます。もし、1つしかない人生を生きるのであれば、悔いのない充実した生涯にしたいと思うのが自然です。上手に生きるという技術があるのでしょうか?わたしには、そういう方法があると感じられます。ジグソー・パズルの1つ1つのピースがぐちゃぐちゃに混ざっているような状態の人生から、パズルが完成し、美しいパターンやイメージが出現するように、よりよい生き方が生活の中に入ってくるに従い、自分の人生がより美しく、深い喜びで満たされるように感じられるのです。
一見豊かで便利に見える現代社会ですが、生きるという技術が育まれているかと自問すると、あまりにも多くの人が、すばらしい能力や可能性を持ちながら、自分の作り出す不協和音やネガティヴな波紋の影でおびえているように思われます。